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神奈川県川崎市のパン教室                      Sucre a la neige

神奈川県川崎市のパン教室  Sucre a la neige

カナダ アイアンマン

アイアンマンハワイは1996の頃には世界各地でのアイアンマンレースでエイジ別で上位に入ったものだけがいけるレースだった。
ほかのスポーツでいう世界選手権のようなもの・

日本では予選に当たるレースは琵琶湖で行われていた。(現在は長崎大島)
体格のいい外人たちと競う欧米各国のレースで行うよりは、日本人が多いこのレースで出場権を得るのが妥当だった。
でもこのレースも出場権を得るのにそれなりの実績と成績が必要だった。。
この時点で宮古島で女子150人くらいのうちの33位に入っていたし、オリンピックディスタンスのレースでは、出場すれば表彰台には上がっていたので、それについては翌年にも出れそうな手ごたえを感じていた。

まずは練習と思い、宮古島が終わってすぐにその年の、カナダのアイアンマンレースに申し込んだ。
このあたりは同じチームの友人たちのおかげもある。自分一人では出ようとは思ってなかったとおもう。海外で一人旅すらしたことがなかったのに、特殊なレースに出るなんて無理無理・・。
8月の終わりころ、ペンティクトンというロッキー山脈の避暑地で行われるレースだった。
宮古島で気が乗ったこともあり、そこからのトレーニングはさらに激しいものだった。
宮古島の前ほど寒すぎなく、外へ出やすかったので本当によく走っていた。35,6度を超す中の30Kランを月に、2,3回とか・・・。
今にして思えば、私にコーチがついていたらあそこまで過激なトレーニングはさせなかったと思う。

カナダのペンティクトンはバンクーバーからバスで6時間くらいハイウェイを言ったところにある田舎の避暑地。
数年後にトロントにホームステイしたところの家族たちは、カナダ人だったけど知らないって言うような町。
8月の終わりはもう秋が近付いている気配
スイムをする時間帯の湖は水温19度とこれまで自分が泳いだ中で一番低温度だった。とってもきれいなすんだ湖で冷たさがさらに際立つ感じだった。
ベテランでトライアスロンにつぎ込んでいる方たちは長袖のウエットスーツを着ていたが、そんな余裕のない私は袖なしのウエットで震えながらのスタートをした。
外気温も寒かったけど、スタートして水に入った瞬間の寒かったこと~~~。
泳ぎの最初は温まるためにがむしゃらだった。
海のときのように波がないし、割と広い所からのスタートだったのでバトルに巻き込まれることもなくスムースに泳げた。
タイムが3.8Kで1時間17分くらい。実はこれは普段のプールで泳いでた時のタイムより良かった。きっとうまいこと水流に乗ったんだと思う。

スイムが終わってあがったら、そこにはホットタブがあって冷え切った体を温めるように準備があったが、あわよくばハワイの出場権がほしかった私は休まず、トランジッションタイムも切り詰めてバイクにスタートした。
バイクの最初はまだ9時前の木陰の一本道で、スイムで冷え切った体はいつまでたっても温まってこなかったなぁ~~。

ひたすら平地の道でやっと太陽を浴びることが出来て調子がのってきて、この分なら宮古島よりいい成績に結びつくかもと思った60キロ地点コーナーを曲がると・・・・・
地獄が待っていた。
毎年のようにこのレースに出ている人に、バイクの60K地点から先が大変と聞いていたが、こんなとは・・・
まずいきなりロッキー山脈からの向かい風が強くなり、一本道でずっと先まで見渡せる道は11K連続の上り坂と下りが5連続。ううん6連続だったか??
日本での練習では11キロ連続の急坂に行くことがなかなかできなかったし、いけても一日に一坂しか登れなかったから、これは本当にきつかった。
一番軽いギアでなるべく負担のないようにまわして登っていく。このスポーツをしてる人とは考えられないほど太った欧米人を抜いてえんえん漕いで、やっと登り切ると、下りは寒くなるくらいのスピードで落ちていくように下るのだが、さっき抜いた太った人たちが体重に任せて猛スピードで落ちていくように抜いていく。
次の登りでまた抜いて、下りでまた抜かされてという展開でレースは進んでいった。
下りのときにふと余裕が出来て見える景色は本当に素晴らしいカナディアンロッキーの景色だった。遠くにシカやクマも見えた。
今度はレースでなく来たいと思った。

5坂目あたりでは限界を感じつつあった。
力と気力を振り絞って進んでいく。もう一坂あるのかと思ったころ、やっと湖沿いの割と平たんな道に出た。
このあたりで、トップアスリートたちが既にマラソンに入って入っているところに出会う。
ものすごい筋肉の塊が進んでいく。ポーラというここ数年、女性のトップをとり続けている人とすれ違う。憧れだった。

このあたりで水もスポーツドリンクも体が受け付けなくなった、ふと思いついて乾燥梅干しを食べたら、復活した。塩分が抜けきっていたらしい。今思えば水中毒になりかけてたのかな?
復活してきてしばらくしたらバイクゴールだった。
宮古島で最後のランでいい思いをしてたので、ここからはあまり心配せずあと4時間少しと思って、出発。
決して飛ばさなくていいからマイペースでいつもどおり、と思って。
でも甘かった、ランもやっぱりアップダウンが小刻みにあり30K地点くらいからどうにも進めなくなった。
歩いては、少し走り歩いては少し走り・宮古のときみたいに走り続けることができなかった。・・悔しくて涙も少し出た。当然ここでハワイの世界選手権なんてことは考えられなくなった。
夕暮れになってきてだいぶ冷え込んできた。走り続けられない体には特に応えた。
エイドステーションでは温かいスープも配られて、それが本当に助けになったことを思い出す。
夜中までかかっても歩き通す覚悟だけではあった。
自分を必死に盛り上げているときに、同じツアーで来た男性ランナーが追いついてきた。ランの最初あたりで得意げに抜かしていった人だった。
泣きそうになっている私を励まして一緒にペースを合わせて走ってくれた。
何回も置いてってと頼んだけどペースを合わせてくれたのでいい励みにしてやっと連続で走れるようになった。
もうしばらく行くとやはり同じツアーで来てた男性アスリートがいて、そこからは3人旅になった。この彼はこのレースの後にカナダで結婚式をあげる、新婚旅行を兼ねたレースだった。
記憶が定かではないが奥さんになる予定の人もレースに参加してたと思う。
励ましあいながら最後の夕日のオレンジが消えそうな時、3人で12時間55分でゴールした。これから結婚の彼と励ましてくれた彼と手をつないで、なみだを目にいっぱい浮かべたゴールの写真が手元にある。

今思うと真夏の炎天下での激しい練習は、内臓をかなり痛めていてオーバートレーニングになっていたと思われ、後半力が尽きたのも理由が分かる。
その後経験を重ねるに従って、がむしゃらにするより、効率が良いトレーニングをしていた時の方がレースでいいパフォーマンスができることを身をもって実感する。
一般ランナーの陥りやすいトレーニング過多だった。

でもこのレースを完走したということは、人生にとっては大きかった。
あんなに自分に自信が持てなかったのに。少し自分をもてるようになった。

そしてハワイへのトレーニングが続く。

琵琶湖に出て、年代別の上位に入って翌年、か、その翌年のハワイの世界選手権に絶対行くんだと決めていた。





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